〔『Party Queen』の記事 【前編】 【中編】 【後編】〕
call
作曲:大西克巳
編曲:tasuku
インスト曲を挟んで、ここからはあゆ独特の自省的な路線となる。会場から出て冷たい夜風に当たり、パーティーの酔いを徐々に醒ますかのようだ。浮かれた空気は消え去り、ここまで僅かに見え隠れしていた影の部分が、一気に前面に出てきた感もある。まずは乾いたギターの音が何処かうら寂しい、オルタナティヴ・ロックのこのナンバーから。
「僕」はかつて「君」と共に見た朝陽を思い出す。「始まりのような終わりだった」その光景。「君は覚えてなんかいないんだろう」という推量や、過去形で語られる「君」についての実感、「全て幻だったんだよ」と誰かに言い聞かせられたいという願望は、今や「君」がどんなに遠い存在になってしまったのかを間接的ながらもありありと表現する。「始まりのような終わり」で「精一杯 笑っていた」と言うのは、互いのためにこそ“前向きに”別れたという事だろうか。何にせよ二人の関係は変わり、「ひとりにはしないよ」と言った「君」はもう側にはいない。そして「僕」は結局、未だに「君」の事を思い出している。
「ひとりにはしないよ」と言われた時、「ずっと探し続けてた 何かを見つけた」気がした事。「君」の温もりに触れた時、ある感情を「生まれて初めて感じていた」事。「僕」は「ねぇ一体 あれを何と呼ぶの?」と誰にともなく問い続ける。何故今はもう無いのか、せっかく「探し続けて」きて「生まれて初めて感じ」たものを何故自分は無くす事になったのか、もう無いという事は自分のあの時の実感は間違っていたのか――どうしようもない喪失が込められたシンプルな問い掛けこそ、「あれ」が温かく愛おしい名前で呼ばれるものだった事を示しているのだろう。「wow」「yeah」という男声のコーラスが印象的で、それに呼応するあゆのヴォーカルは、言葉にならない声そのものだ。物悲しさをそのままに、次の『Letter』に続く。
歌詞リンク:浜崎あゆみ call 歌詞 - 歌ネット
Letter
作曲:大西克巳
編曲:tasuku
『call』とは作曲者と編曲者が同じ事もあって雰囲気が似ているが、よりウェットで感情的なイメージがある。こちらも「僕」と「君」は距離があるらしく、あるいは『call』と同じ二人の物語なのかも知れない。
「僕」は遠くの「君」へ、「そっちはどうだい?」「友は居てくれるかな?」と、手紙を綴るかのように問い掛ける。何か過去の思い出があるらしい「あの場所」は、あるいは『call』で朝陽を見た場所だろうか?主人公は「まっすぐでまっすぐで 誤解ばかりで なかなか理解はされなくて」という「君」を「好き」でいる。それほど相手を理解し受けとめる心がありながら、「君」が決して近くにいる存在ではないのが何とも切ない。
2番では、ひと握りしかない「シアワセ」のために、「鼻水とか垂らしてさ 這いつくばってるんだよ」という歌詞が出てくる。あゆ作品ではたびたび人の弱さや影が赤裸々に語られてきたが、「鼻水」というあからさまに汚い単語が出てきたのは初めてで、この上なく泥臭くみっともない描写を際立たせている。シアワセを掴むために時には必要な、「かっこ悪い」生き方。仮に『call』と同じ二人の物語であるとすれば、二人が離れたのもその「かっこ悪い」経験の一つだろうか。それとも「かっこ悪い」生き方をした結果離れてしまったのか。何にせよ、「僕」は「君」を好きだと言う。互いの場所で、これからも「かっこ悪」く必死に生きてゆくのだろう。
「君」は飲み過ぎるのと反省するのを繰り返してしまう一面もあるらしい。一応ここでもまた、「飲む」という行為がある。アルバム序盤にいたパーティークイーンも傍から見るとそういう人もかも知れない。そして、あゆにとっての「君」がいるであろう事は承知の上で、あゆファンとしては、「まっすぐでなかなか理解されない」のはあゆ自身のようにも思えてしまう。
歌詞リンク:浜崎あゆみ Letter 歌詞 - 歌ネット
reminds me
作曲:中野雄太
編曲:tasuku
まず冒頭の一節に漂う、疲労感が凄まじい。「疲れた身体と一緒に 暗い部屋に辿り着き 灯りをつけなくちゃって あの瞬間が大キライ」。スターの多忙さは言わずもがなだが、灯りをつけるのさえ億劫になる経験は、誰しもにあるのではないか。「疲れた身体と一緒に」という、疲れを自らと切り離す表現から、それだけくたくたである事や、共にあるのが自分自身の疲労のみであるという孤独感が伝わってくる。あゆは光の裏にある影を様々描いてきたが、擦り切れた生活感をここまで表現するのも珍しい気がする。前曲『Letter』の「鼻水」のくだりもそうだが、アルバム序盤のパーティーの浮かれた雰囲気からの落差はいよいよ激しい。
疲労のピークに達している「僕」は、忘れてしまいたい、けれど「忘れちゃいけない」過去の痛みと向き合う事になる。そして、その過去に関わっているらしい「あなた」の事を、「許してあげられるといいな」と思う。許せないだけの理由があるはずなのに、いずれ許した方がいいとも思っているのは何故なのか。あゆ作品には、良い事であれ悪い事であれ全ての過去が現在を形作っている、という価値観が見える事がある。感情的には受け入れられなくても、「道」が続く上では必要な過程だったという事かもしれない。
楽曲は単純な1番2番というような構成ではなく、中盤はずっとサビが続いている。疲れ切って部屋に着いたところから虚無感を伴って始まり、徐々にストリングスが劇的に響くロックへ。最後はまた疲れ切ったくだりを繰り返して終わる。
歌詞リンク:浜崎あゆみ reminds me 歌詞 - 歌ネット
Return Road
作曲:D・A・I
編曲:中野雄太
あゆ作品の根幹を支えてきた自省的でダークな空気は、アルバム冒頭の一見明るい3曲にも潜み、逆にこの陰のあるパートの楽曲も、よく見れば細かい部分で珍しい要素に思い当たる。その中で、この曲はなじみの深い路線が一番現れた作品かもしれない。オルガンやストリングスが悲しくも壮大なシンフォニックサウンドを作り出すロックバラードに載せて、訪れた別れが描かれる。2番の後の間奏ではピアノが狂気を奏で、コーラスが悲劇性を強調するように響く。
互いの瞳に互いを映し、呼吸を忘れる程の出会いをした2人。目を閉じれば、その場面は道を引き返したようにはっきりと思い返せる。しかし今、「私達の瞳に2人はもう居な」い。「だからって 別の何かが 映ってるとかではなくて」という一節の何と切ない事か。他の誰かや何かの方が大切になったわけでもないのに、ただその人が瞳に映らなくなってしまう。想いの行き場がなく、やり切れない。
「他人は面白く可笑しく言うでしょう こんな私達を」「2人の事は2人にしか解らない」というところには、あれこれ憶測で言われがちなスターの立場も垣間見えるが、実際、当人達にしか分からない真実は存在するものである。「2人はもう居ない」というのは、単に想いが冷める事とも違うのかもしれない。想いが変わらなくても見え方は変わりうるのだ。「あの日 確かに見えた もの」が嘘ではないからこそ、その落差は大きい。『appears』では一見幸せそうな2人でも全てが上手くいっているとは限らない、と歌われたが、この作品は、別れもまた外から見えるほど単純ではない事を伝えている。
PVでは、何かの研究施設のようなところに、あゆがバンドと侵入し、激しいパフォーマンスを見せる。喪服のごとき黒一色のドレスで物々しい戦車に乗るあゆは一体何を思うのか。ロボットのように歩く集団が不気味である。
歌詞リンク:浜崎あゆみ Return Road 歌詞 - 歌ネット
Tell me why
作曲:Hanif Sabzevari, Lene Dissing, Marcus Winther-Jhon, Dimitri Stassos
編曲:CMJK
寂寥感や虚無感を漂わせるR&B。 主人公の自称ではないが、「俺」という一人称が初めて登場する。
ダークなパートに入ってからは離れてしまった2人が登場する歌が続き、その最後であるこの歌にしてようやく離れていない2人が描かれた。ただし、近くにいるのに遠く感じる、という、結局は距離を感じさせる関係ではある。
「私」は「あなた」に「今なにを想っているの?」「その声で聴かせて欲しい」と切実な気持ちを向けている。「あなた」の瞳に「優しいものとか温かいもの」だけが映っている事を願っているが、現実がそうではない事も分かっているらしい。一方「あなた」はどのような様子かと言えば、「いつも全てひとりで 背負ってひとりで苦し」み、「悲しい目で無理矢理 楽しいよって顔してみせ」ている。それはもしかしたら「私」への思いやりなのかもしれないが、「私」はそんな「あなた」の無理に笑ってまで自分だけで抱える姿に無力さを覚え、「少しも支えてあげることも出来ない?」と嘆く。
『SURREAL』に「ひとりぼっちで感じる孤独より ふたりでいても感じる孤独のほうが 辛い」という歌詞があったが、この歌に描かれているのも、近くにいるはずなのに心に寄り添えない寂しさや辛さだろう。また、あゆ作品でよく歌われるのは、大切な人とは良い事も悪い事も分かち合いたいとか、大切な人には自分の闇や影も見せていたいという事への、並々ならぬ覚悟だ。それだけに、相手の「痛みや迷いや過去」を感じながらも触れられずにいる悔しさは、計り知れない。
曲全体には溜め息のようなヴォーカルが散りばめられ、終盤は「oh oh Tell me why(訳を教えて)」と懇願するかのように繰り返す。相手を巻き込まないように黙っているのと、相手を孤独にさせないように打ち明けるのと、どちらがその人のためになるのだろうか。少なくともこの歌の「私」は後者を望んでいるようだが。